※この記事は映画『来る』のネタバレを含む考察です。
『来る』は、正体不明の“あれ”に翻弄される一家の物語でありながら、見終わったあとに怖さが増すタイプのホラーです。 本記事では「作中で確定している事実」と「考察(解釈)」を分けて、 “あれ”の正体/なぜ田原家が狙われたのか/結末の意味/伏線を答え合わせします。
作品情報:TOHOシネマズ/原作情報:KADOKAWA
この記事でわかること
- “あれ(ぼぎわん)”の正体をどう読むべきか(複数説)
- なぜ田原家が狙われたのか(物語構造の整理)
- 結末(ラスト)の意味:救済?循環?未完?
- 伏線を表で回収(見落とし防止)
- 原作との違い(未読でもOKな範囲で)
結論まとめ(答え合わせ)|“あれ”の正体・狙われた理由・結末の意味
先に結論(要点)
- “あれ”は、作中では「明確な正体」が断言されず、怪異(存在)としても概念(人間の歪み)としても読めるように作られている。
- 田原家が狙われた理由は、超常現象の“理屈”というより、家族・人間関係の綻びが怪異を強めていく構造で説明すると腑に落ちる。
- 結末(ラスト)の意味は、①救済(決着)/②代償と循環/③完全には終わっていないの3方向で読みやすい。
※以下、本文で「事実」と「解釈」を分けて詳説します。
まずは基本情報(公式寄り)|原作・公開・作品データ
| 作品名 | 来る |
|---|---|
| 原作 | 澤村伊智『ぼぎわんが、来る』(角川ホラー文庫) |
| 公式の作品情報 | TOHOシネマズ(配給:東宝など) |
引用元:
TOHOシネマズ:『来る』作品情報
KADOKAWA:原作『ぼぎわんが、来る』(角川ホラー文庫)
ネタバレあらすじ(考察に必要な部分だけ・超圧縮)
ここから先はネタバレが濃くなります。
前半:違和感の芽(“知紗”を知る来訪者)
- 田原の職場に「知紗さんの件で」と伝言を残す来訪者が現れる。
- 知紗は、まだ生まれていない(名付けたばかりの)娘の名前。なぜ知っているのかが不気味さの核になる。
中盤:家族のほころびと“あれ”の接近
- 不可解な出来事が増え、田原家は“見えないもの”に追い詰められていく。
- 霊感を持つ人物たちが関わり、怪異の輪郭が徐々に濃くなる。
終盤:対峙(集結)と決着(ただし余韻が残る)
- 複数の霊媒・関係者が集まり、“あれ”と対峙する大規模なクライマックスへ。
- 派手な見せ場のあと、勝ったのか/終わったのかが観客に委ねられる余韻で終わる。
参考(あらすじ):
TOHOシネマズ:『来る』作品情報
“あれ(ぼぎわん)”の正体を考察|断定できる事実/解釈の余地
【事実】作中で確定していること(ここは断言してOK)
- “あれ”は人間の常識では説明できない現象として描かれる(被害・異常・介入)。
- “あれ”は誰彼構わずではなく、特定の対象(田原家)へ執着するように迫る。
- 終盤は、霊媒的な手段での対抗が中心となり、“戦い”として構図化される。
【考察1】“怪異”としての正体:存在は「何か」より「どう作用するか」
原作タイトルが示す通り、“あれ”は「ぼぎわん」という呼称で語られます。 ただし映画は、その正体を“図鑑的に説明”するより、現象の怖さと人間側の崩壊を優先している印象です。
この説の読みどころ
- “あれ”の怖さ=能力の強さ、というより逃げ道を奪う粘着性
- 対策が進むほど、別の歪み(不信・暴露・利害)が噴き出す
【考察2】“概念”としての正体:怪異は「家族の歪み」を増幅する装置
『来る』の面白さは、“あれ”が家族の中に元々あった問題を可視化していく点です。 つまり怪異は外部からの侵入者であると同時に、内側にある痛みや分断を増幅する鏡として機能します。
ポイント:この読み方をすると、「怪異の設定を完全に説明しない」こと自体が意味を持ちます。
正体の言語化よりも、人間が壊れるプロセスが主題になるからです。
なぜ田原家が狙われたのか?(物語の核心)
【事実】“外から来た恐怖”が、家族の関係を壊していく
前半の段階で、田原家は「幸せな家庭」として提示されますが、物語が進むほど 言葉にされない違和感や見て見ぬふりが積み重なっていきます。
【考察】狙われた理由=“呼び込む構造”が整ってしまった
「誰が呼んだのか?」という問いに対して、本作は単純な犯人当てに回収しません。 代わりに、家族の中の痛み・ズレ・承認欲求が、“あれ”を強くしていく(招き入れてしまう)構造を描いているように見えます。
読みやすい整理(3点)
- 隠し事が増えるほど、怪異は“説明不能”として肥大化する
- 分断が進むほど、対策は「一致団結」できなくなる
- 言語化できない痛みほど、“外側の恐怖”に置き換えられる
結末(ラスト)の意味を3説で整理|救済/循環/未完
ここは断定しません。映画は余韻を残す作りなので、読みやすい3説に分けます。
説1:救済(決着)…「勝った」と読む
クライマックスの“対峙”は、明確な戦いとして描かれます。 そのため「一定の決着がついた」と受け取り、ラストの余韻を傷の残る勝利として読むことができます。
説2:循環(代償)…「終わったように見えて終わらない」と読む
ホラーの王道として、怪異は完全には消えず、形を変えて残ることがあります。 本作も「代償」や「残滓」を匂わせるため、恐怖が循環するエンドとして読む余地があります。
説3:未完(観客委ね)…「答えを固定しない」ことがテーマ
そもそも『来る』は、怪異の百科事典ではなく、人間の痛みが増幅していく物語です。 だからラストを固定せず、観客の経験(家庭、仕事、関係性)で怖さが変わるように作られている、と考えるのが一番しっくり来る人もいます。
伏線回収チェック(表で答え合わせ)
| 伏線/違和感 | 登場 | 回収(または意味づけ) | 考察(読み) |
|---|---|---|---|
| “知紗”を知る来訪者 | 前半(発端) | 怪異が「家族」を狙う前提が確立 | 恐怖の本体は“外”よりも“内”に食い込む |
| 小さな嘘・隠し事 | 中盤まで反復 | 対策が一致団結しにくくなる | 怪異は「分断」を餌に肥大化する |
| 周囲の“信じない空気” | 随所 | 孤立→焦燥→判断ミスへ | 現代ホラーとしてのリアリティ(社会の怖さ) |
| 終盤の大集結 | クライマックス | 一見“勝利”に見える | 派手さの裏で「傷」が残る=後味の源 |
使い方:もう一度観るなら、上の表の「登場」ポイントだけ意識すると、怖さより“構造”が見えて考察が捗ります。
原作との違い(未読でも読める範囲で)
原作は澤村伊智『ぼぎわんが、来る』(角川ホラー文庫)です。 映画は映像の勢いで“体感”を作る一方、原作は文章で背景や心理を補完しやすい面があります。
| 観点 | 映画『来る』 | 原作『ぼぎわんが、来る』 |
|---|---|---|
| 怖さの方向 | 映像・音・集結のカタルシスで“体感” | 文章で違和感を積み、じわじわ追い詰める |
| 答え合わせ | 余韻(曖昧さ)が残りやすい | 補足情報で腑に落ちる部分が増えやすい |
| おすすめ | 映画→考察→原作で補完 | 原作→映画で演出意図を読む |
引用元:KADOKAWA書誌
KADOKAWA:原作『ぼぎわんが、来る』
よくある質問(FAQ)
FAQは上位表示に効きやすいパートです(読み切りやすく短文で)。
Q. “あれ”の正体は結局なんですか?
A. 映画は正体を断言しません。怪異(存在)としても、家族の歪みを増幅する概念としても読めるように作られています。 そのため「どれが正解」より、どの読み方が一番怖かったかが答えになります。
Q. なぜ“知紗”の名前を知っていたの?
A. そこが恐怖の起点です。説明が少ない分、「外部の侵入」だけでなく「内側の綻び」を疑わせる構造になっています。
Q. ラストはハッピーエンド?バッドエンド?
A. ①救済(決着)②循環(代償)③未完(観客委ね)の3説で読むと整理しやすいです。
Q. 原作を読むと何が補完されますか?
A. 映画で“行間”として残った部分が、文章の情報量で腑に落ちやすくなります。答え合わせ目的なら有効です。
まとめ|『来る』は「理解した瞬間に怖くなる」タイプのホラー
- 『来る』の怖さは、“あれ”の設定より家族の崩壊構造にある
- 正体は断言されないからこそ、複数の読みが成立する
- 伏線を整理して観返すと、怖さが“説明”へ変わり、さらに怖くなる
もしモヤモヤが残ったら、もう一度「伏線表」を見ながら観返すのがおすすめです。


